名古屋豪雨で問われた、従業員の一部だけ早退(帰宅)させてもいい?休業手当と安全配慮義務

昨日、名古屋で起きたこと
2026年9月8日午後、愛知県西部、岐阜県美濃地方で線状降水帯が発生し、名古屋市内では1時間に104.5ミリという猛烈な雨を観測しました。これは2000年の東海豪雨(97.0ミリ)を上回る、観測史上最大の記録です。
名古屋市は100万世帯・198万人に避難情報を発令し、市営地下鉄は全線で運転を見合わせました。JR、名鉄などの鉄道も広範囲で運休し、帰宅時間帯と重なったことで、駅は身動きが取れないほどの人であふれかえる事態に。これを受けて市は、帰宅困難者向けに24時間滞在可能な「退避施設」を開設しました。
多くの企業が、この日「従業員をどう扱うべきだったか」という問いに直面したはずです。そして、その問いは今後も繰り返されます。
筆者自身も、当日19時30分頃まで現地におりました。携帯電話からひっきりなしに鳴り響く緊急速報のアラート音や、聞いたことのないサイレン音が響き、尋常ではない状況だと肌で感じていたものです。それでも比較的落ち着いて行動できたのは、気象の知識があり、普段から災害時の移動ルートをシミュレーションしていたからだと思います。
この経験は、後述する「従業員自身の防災リテラシー」の重要性を考えるきっかけにもなりました。
大雨の予測と、交通機関の停止予測は別物
線状降水帯の発生や大雨の危険性そのものは、気象庁から事前に情報が出ていました。危険の兆候そのものは、決して"寝耳に水"ではなかったのです。
しかし、企業が本当に必要としていたのは「危険が近づいている」という情報だけではなく、「いつ、どの交通手段が、どの程度止まるのか」という情報です。
鉄道各社の運休判断は雨量の実況を見ながら行われるため、事前の予告可能性は本質的に低いといえます。
つまり、気象の危険度が予測できることと、企業が従業員をいつ・どう動かすべきかまで予測できることは、まったく別のレイヤーにあります。
この区別を曖昧にしたまま「早めに気象情報を確認しましょう」で終わる防災コラムは、今回のような事例に対して実質的に無力です。
「早く帰せばいい」だけでは済まない

一般的な防災対応が暗黙の前提にしているロジックは、次のようなものです。
気象情報を早めに掴む → 早めに判断する → 早めに帰す → 安全
しかし、このロジックには限界があります。
まず、今回のケースでは、夕方の帰宅時間帯にかけて名古屋市内の主要な鉄道やバスが相次いで運転見合わせとなり、道路の冠水も重なって交通網がほぼ完全に麻痺しました。
仮にある企業が14時の時点で「まだ大丈夫」と判断して通常通り勤務させていたとしても、結果的には交通機関が止まる前に帰宅できていた、というケースは起こり得ます。
逆に、「危ないから早めに」と判断した企業の従業員が、移動の道中で急激に悪化した冠水や各線の運転見合わせに巻き込まれることもあり得ます。
もっと言えば、230万人以上の人口を抱え、昼間には周辺地域からも多くの通勤・通学客が流入する名古屋市のような大都市で、企業が一斉に「早めに帰す」を行えば、交通機関のキャパシティを超えて、駅や道路が一気に混雑する可能性もあります。
早く帰すことが、必ずしも安全な移動につながるとは限らないのです。
これはあくまで「早期判断が安全を保証するとは限らない」ことを示す結果論としての例示であり、「居残らせた方がよい」という意味ではありません。
当日その時点で、どちらが安全かを事前に見極めることはできなかった、という点が重要です。
さらに、企業の防災判断には逆方向に働く複数の失敗コストがあります。
- 過剰対応のコスト(機会損失):
早期終業を決めれば、その分の営業・生産機会を失います。特に小規模事業所では、数時間の営業短縮がそのまま収益に直結します。 - 過小対応のコスト(安全配慮義務上のリスク):
逆に居残らせた結果、従業員が移動中に危険にさらされるケースです。 - 空振りのコスト:
早期終業を決めたが結果的に大した被害が出なかった場合です。この経験が積み重なると、次回以降の判断への信頼が薄れ、「どうせ今回も大丈夫だろう」と警戒心が低下するリスクがあります。
企業に求められているのは、「今回は当たるか外れるかを言い当てる能力」ではなく、どちらに転んでも致命傷にならない判断の型を平時のうちに持っておくことだといえます。
会社にはどんな法的な義務があるのか
ここからは実務論点として、災害時対応に関わる法的な義務を整理します。
安全配慮義務(労働契約法5条)
使用者は労働契約に付随して、労働者の生命・身体の安全に配慮する義務を負います。
この義務がある以上、危険が予見される状況で何の検討もせずに放置することはリスクになりますが、「結果が悪ければ即座に義務違反になる」というものでもなく、「事前に何を検討し、どう備えていたか」が個別の事情に応じて考慮される、という理解が実務上は妥当です。
具体的にどこまでの対応が求められるかは、業種・事業規模・当日の状況によって異なるため、一律の基準があるわけではありません。
早期終業を命じた場合の賃金・休業手当(労働基準法26条)
ここが最も誤解されやすい論点です。
労基法26条は、使用者の責に帰すべき事由による休業について平均賃金の6割以上の休業手当支払いを義務付けていますが、天災事変等の「不可抗力」による休業であれば、この支払義務は生じません。不可抗力と認められるには、次の2要件を満たす必要があるとされています。
- その原因が事業の外部より発生した事故であること
- 事業主が通常の経営者として最大の注意を尽くしてもなお避けることのできない事故であること
ここで重要なのは、会社が予報や兆候を踏まえて、交通機関が実際に停止する前に予防的な早退を命じた場合には、当然に「災害だから不可抗力」と扱えるわけではないという点です。
交通機関がまだ現に止まっていない段階での予防的な早退指示は、会社側の判断による休業として、休業手当の要否が問題になる可能性があります。気象警報のレベルや地域の危険度、事業の継続可能性などによって判断が分かれるため、「災害だから休業手当は不要」と一律に考えることはできません。
この場合、早退分の賃金を控除した結果、その日の支給額が平均賃金の6割を下回るときは、差額を休業手当として支払う必要があります。

なお、実際に交通機関が運休するなど、通勤・就労が物理的に不可能になった後であっても、それだけで自動的に不可抗力と認められるわけではない点には注意が必要です。
特に、自社の施設・設備そのものは被害を受けていない場合には、交通機関の運休だけを理由として直ちに不可抗力と判断できるわけではなく、取引先への依存度や代替手段の有無、休業回避のための努力などを総合的に勘案する必要があります。
不可抗力として扱われやすい典型例は、自社の施設・設備が直接的な被害を受け、浸水・停電・倒壊などにより物理的に業務が行えないようなケースです。
つまり、「危険を感じて早めに帰した」という一見従業員思いの対応が、法的には会社都合の休業として扱われ得るということです。この点を理解せずに「災害だから休業手当は不要」と考えてしまうと、後日トラブルの原因になります。
年次有給休暇の一方的命令はできない
年次有給休暇は労働者が請求する時季に与えるものであり、使用者が一方的に取得を命じることはできません(労働基準法39条5項)。
「年5日の有休取得義務」による時季指定や、計画年休(労使協定であらかじめ取得時期を定めておく仕組み)以外で、「今日は危ないから有休を使って帰ってください」という対応を会社が当然にできるわけではありません。
賃金支払いの原則は災害でも減免されない(労働基準法24条)
労基法24条は賃金の全額払いを原則としており、災害を理由に、すでに発生した賃金の支払いを当然に免れることができるわけではありません。
一方、早退によって労働しなかった時間について、賃金をどのように扱うかは、前述の休業手当の問題として別途考える必要があります。
法律とは別に、平時から決めておくべきこと
法律上の義務とは別に、決めておかないと当日その場で混乱する、あるいはトラブルの火種になりやすい実務事項があります。これらは「法律で定められた義務」ではなく、「会社として事前に決めておいた方がいいこと」として区別しておく必要があります。
- 判断権者を明確にしておく:
特に小規模事業所では、早期終業や帰宅可否の判断権者が曖昧なまま、その場にいる管理職の裁量に任されているケースが少なくありません。経営者不在時の代理判断者まで含めて、あらかじめ決めておくべきです。 - 従業員の実際の通勤手段を正確に把握しておく:
今回のように、鉄道がほぼ全滅する一方で、バスは事業者によって運行状況が異なっていたというケースもあります。
「電車通勤」「バス通勤」といった申告上の分類だけでは、実際にどのルートなら帰れるのかが判断できません。
定期的に、従業員一人ひとりの実際の通勤経路・手段を最新の状態で把握しておくことが前提になります。 - 通常と異なる帰宅手段を使った場合の扱いを決めておく:
今回、徒歩、レンタル自転車、タクシー、高速バスなど、普段とは違う手段で帰宅した従業員もいると思われます。
労災保険上の「通勤」は、住居と職場の間を「合理的な経路及び方法」で移動することとされており、道路工事による交通規制での迂回など、正当な理由に基づく経路変更は合理的な経路として認められています。
交通機関の運休によるやむを得ない迂回・手段変更についても同様に考えられる可能性はありますが、これは個別の認定基準の確認が必要な論点であり、本記事では確定的な結論としては扱いません。
一方、タクシー代やレンタル自転車代などの実費を会社が負担するかどうかは法律上の義務ではなく、会社の判断に委ねられます。
ここを事前に決めていないと、精算した人としなかった人で不公平感が生じたり、当日の場当たり的な判断で混乱を招いたりしがちです。
就業規則や社内規程で「災害等やむを得ない事情による代替手段利用時の実費精算の可否・上限」をあらかじめ定めておくことが望ましいといえます。 - 判断の記録を残す:
いつ、どの情報(気象庁の発表、鉄道の運行情報など)を根拠に、どう判断したかを記録しておくことは、後日の説明責任を果たすうえで重要な備えになります。 - 従業員自身にも防災の判断リテラシーを持ってもらう:
鉄道・バスの運行情報の確認方法や、冠水・浸水リスクのある経路の見分け方など、従業員自身が状況を判断できる知識を身につけてもらうことも、この状況下では心強い備えになります。
会社の判断を待つだけでなく、従業員本人が自分の状況に応じて適切に動けることは、結果的に会社側の判断負担も軽くします。
個人が平時からどの程度備えているかによって、災害時の判断や行動にも差が生じ得るということです。
全員が帰れない職場では、どう考えるべきか
ここまでは「全員を帰すかどうか」という前提で話を進めてきましたが、現実にはそう単純ではない職場が多くあります。店舗を無人にできない、ライン作業の途中で全員は抜けられない、窓口業務を止められない。そうした職場では、「全員早期退社」という選択肢自体が存在しません。
すると、判断は次のように連鎖していきます。
一部を先に帰す → では誰を帰すのか → 残った人はいつ、どう帰すのか → その人たちが帰宅できなくなった場合はどうするのか
この連鎖を、当日その場の思いつきで処理するのか、それとも平時に一定のルールとして持っておくのか。ここが、今回の記事で最も掘り下げたい論点です。
「誰を帰すか」を当日になって決めるのか

「希望者は先に帰っていい」という対応は、一見公平に見えますが、実際には希望を言い出しにくい従業員や、業務都合で希望を出せない従業員を置き去りにする可能性があります。
一方で、「遠距離通勤者から帰す」「公共交通機関利用者を優先する」といった属性別の基準をあらかじめ決めておく方法もありますが、これも万能ではありません。
近距離でも道中に冠水しやすい経路がある人、車通勤でも道路が冠水すれば動けなくなる人など、単純な属性だけでは捉えきれない事情が必ず出てきます。
だからこそ重要なのは、「誰を帰すか」という個別判断を、その場の上司の裁量だけに委ねないという姿勢です。完璧な基準を事前に作ることはできませんが、少なくとも、
- 判断権者は誰か
- どの情報を基準に、どの順番で検討するか
- 残らざるを得ない人への対応(滞在体制・情報提供)をどう用意するか
という骨格だけでも平時に決めておけば、当日の判断は「ゼロから考える」のではなく「決めてあった枠組みに当てはめる」作業になります。
これが、現場の混乱と後日の紛争リスクの両方を減らす、現実的な備え方だといえます。
まとめ
災害が起きたときに、完璧な判断をすることはできません。今回の名古屋のケースが示しているのは、「気象情報を早めに確認する」という一般論だけでは対応しきれない現実です。
だからこそ、平時のうちに、「どこまでなら仕事を止めるのか」「誰が判断するのか」「一部しか帰せない場合、誰をどう帰すのか」「帰宅が難しくなった場合はどうするのか」を決めておくことが重要です。
そして、賃金や休業手当の扱いについては、「災害だから会社の責任ではない」と安易に判断せず、実際に何が起きていたのか(交通機関が現に止まっていたのか、会社が予防的に判断したのか)を踏まえて整理する必要があります。
予測が当たることを前提にするのではなく、予測が外れることまで含めて考えておく。それが、会社にできる現実的な備えなのではないでしょうか。
出典
事実関係
法的根拠
- 厚生労働省「東日本大震災に伴う労働基準法等に関するQ&A(第3版)」(休業手当・不可抗力の2要件、年次有給休暇、賃金支払原則)
- 労働契約法の施行について(平成24年8月10日基発0810第2号)
- ロイヤル総合研究所「台風接近に伴う早退指示と賃金控除の可否」
- 広島県「通勤災害として認定されない場合とは,どのようなケースか」
- 中小企業庁「中小企業BCP策定運用指針 第2版」
- 内閣府防災担当「事業継続ガイドライン-あらゆる危機的事象を乗り越えるための戦略と対応-」(令和5年3月)
※厚生労働省のQ&Aは東日本大震災(2011年)当時に発出されたものですが、不可抗力の判断枠組みは現在も踏襲されている考え方です。
<「現場の見方」について>
「現場の見方」は、職場で一般的に起こり得るさまざまな出来事を題材に、そこにある職場の構造について考えるコラムです。
人の行動や職場で起こる問題を、個人の能力や性格だけで捉えるのではなく、その背景にある仕組みや前提から見ていきます。
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