その「離職率の低さ」本当に健全ですか

求人費もかけていない。なのになぜか伸び悩む

「うちは離職率が低いんです」

そう話す社長は、それを誇らしく語ります。実際、採用コストはかかっていないし、急な欠員に頭を悩ませることも少ない。表面的な数字を見れば、悪くない組織に見えます。
しかし、同じ会社でこんな声も聞こえてきます。

「業績がここ数年、伸び悩んでいる」

「一部の社員がいつも疲れている」

「なぜかベテランほど辞めていく」

離職率という「見えるKPI」は健全なのに、会社の実態はどこか重い。もしこの違和感に心当たりがあるなら、一度疑ってみてほしいことがあります。
それは、職場が「誰かの善意」を前提に回っているという状態です。
誰かが休むたびに、その負担を誰かが引き受ける。その負担を引き受ける人ほど責任感が強く、「自分が抜けたら現場が回らない」と感じていることも少なくありません。

前回の記事では、このような状態を、心理学で使われる「共依存」という言葉も参考にしながら考えました。その背景には、善意に頼らなければ回らない職場の構造があります。
今回は、この構造が実際にどれくらいのコストを会社に生んでいるのかを、公的統計や調査データをもとに、できるだけ保守的なレンジで見積もってみます。

まず診断:あなたの会社は当てはまるか

コストの話に入る前に、簡単なチェックをしてみてください。

  • 誰かが休むと、負担がいつも同じ人や同じメンバーへ偏る
  • 業務や判断が、特定の人にしか分からない状態が残っている
  • 引き継ぎや応援が、その場の善意に頼っている
  • 「支えてくれる人」がいることを前提に現場が回っている
  • 管理者の配慮によって問題が吸収され、仕組みとして改善されない

いくつか当てはまる場合、離職率という数字だけでは見えない負担が発生している可能性があります。

「見えるコスト」だけでも、これだけある

断っておくと、「善意で回る職場だと年間◯◯円損する」という直接の実証研究は存在しません。
ここで示すのは、離職・休職・生産性低下に関する複数の公的統計や民間調査の相場観を組み合わせた目安のレンジです。
厳密な因果関係の証明ではなく、経営判断の参考値として捉えてください。

① 離職1名あたり:約200万〜500万円

採用活動費、教育コスト、戦力化までの遅れ、欠員期間の残業対応、そして不在期間中に生じる売上機会の損失などを含めた相場観です。人材紹介・求人サービス各社の試算でも、この帯に収まるケースが多く報告されています。

② 休職1名あたり:約400万〜450万円

内閣府や協会けんぽ関連の資料では、休職者1人あたりのコストとして400万円台前半の試算が示されています。中小企業ではこの規模の損失を1人分の欠員が生み出す計算になります。

③ 慢性的な生産性低下(プレゼンティーズム):1人あたり年20万〜80万円

出勤はしているが本来のパフォーマンスが出ていない状態です。全国推計では、メンタル不調による生産性損失は年間7.6兆円規模ともいわれています。全員が均等に影響を受けるわけではなく、一部の「支える人」に集中して起きるのが実務上の実感に近いところです。

④ 意思決定の遅延・手戻り:年50万〜300万円

報告の遅れ、確認作業の増加、小さなミスの見逃しなど、数値化しづらい非効率です。ここは特に幅が大きく、組織の情報共有の質に強く依存します。

12人の会社で試算すると

仮に、従業員12人の会社で年間に

  • 離職1名
  • 軽度の休職1名
  • 数名の生産性低下

が起きたとします。単純に足し合わせると、200万〜500万円(離職)+ 400万〜450万円(休職)+ 100万〜300万円(生産性低下)で、合計およそ700万〜1,200万円というレンジになります。

ただし注意が必要です。これらの数字は独立した事象として単純合算していますが、実際には同じ根っこから生えた症状であることが多いです。生産性が落ちた人が、やがて休職し、最終的に離職するという一連の流れの中で、それぞれの段階のコストとして計上されている可能性があります。したがって、この合計額は「上限に近いレンジ」として見るのが妥当です。採用難や納期遅延、顧客対応品質の悪化まで含めれば、さらに膨らむ余地はありますが、確度の高い数字とは言えません。

この記事で伝えたいのは「1,000万円」という金額そのものではなく、「数字にすると経営会議の議題になる規模の話だ」という感覚です。

本当に高くつくのは、辞めた人のコストではない

ここまで、離職や休職という「見える損失」を数字にしてきました。しかし、善意で回っている職場で本当に高くついているのは、実はここではありません。

辞めずに、休まずに、支え続けている人の生産性とモチベーションが、静かに削られ続けているコストです。
このコストは決算書のどこにも直接現れません。離職も休職もしていないので、人事データ上は「安定した優秀な社員」として記録され続けます。しかし本人の中では、負担の蓄積が限界に近づいていることがあります。
そして、その人が辞めると決めたとき、会社が失うのは1人分の採用コストだけではありません。

その人が毎日黙って引き受けていた判断、調整、フォロー、確認。

会社がその存在すら把握していなかった仕事まで、まとめて失われます。

引き継ぎ資料を作ろうとして、初めて気づくのです。
「この人、こんなに多くのことを、こんなに当たり前のようにやっていたのか」と。
誰にも頼まれていない調整。誰の評価にもなっていない気配り。マニュアルにない判断。それらすべてが、退職の1か月前になって初めて可視化されます。
これまで見えていなかった負債が、退職届と同時に一気に表面化する。これが、「離職率が低いのに業績が伸び悩む」会社の正体であることが少なくありません。
低い離職率は、健全さの証拠ではなく、誰かが無理をして支えている証拠かもしれないのです。

管理すべきは「気持ち」ではなく「仕組み」

ここまで読んで、「では、うちの会社は何をすればいいのか」と思われたかもしれません。答えはシンプルです。人の善意に頼っている部分を、仕組みに置き換えることです。

  • 誰が休んでも業務が止まらない引き継ぎ体制になっているか
  • 特定の人に業務が集中していないか、定期的に可視化されているか
  • 「支えている人」を評価制度上、正当に評価できているか
  • 応援に入れる人材が、日常的に育成されているか

これらは、精神論や「もっと助け合おう」という声かけでは解決しません。会社が設計し、投資すべき仕組みの問題です。
もし、

「誰が休んでも回るか」

ではなく、

「あの人だけは辞められると困る」

という社員が、何人も思い浮かぶなら、あなたの会社は、離職率という数字ではなく、その数字を支えている構造を見直す時期に来ているのかもしれません。

※本記事中の金額は、内閣府・厚生労働省関連資料や各種民間調査の相場観をもとにした概算レンジであり、特定の学術的因果関係を示すものではありません。実際のコスト試算には、貴社の状況に即した個別診断をお勧めします。

職場の構造、一人で抱えていませんか

ここで取り上げたような問題は、精神論や個人の頑張りでは解決しません。会社が制度として設計し、投資すべき「仕組み」の問題です。
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